| ◆墨書に見る年代
墨書で最も古い年代は1.元文3年(1738)である。この墨書は、年号の次の漢数字がかすれていることから「二」とも読めるが、次の文字が干支の 「午」 であることから元文3年であることが判明した。
古文書「御町会所古記之内書抜 寺社之部」明和7年(1710)の条には、宮之町の笠鉾に関する記述があり、この中で一人持の傘の出し物から「元文三年相改宮之町も九ケ町同前ニ二重蓋四人持ニ成菊慈童の作り物…」 になったとある。前述の墨書の年代1.と一致することからも笠鉾「菊慈童」 の最初の製作年代は、元文3年であると判断される。
当初の形は前述の文書より、「二重蓋(屋根)」「菊慈童の作り物」で、1.の墨書「柱八本」より八角形平面であったと考えられる。しかし、古文書「八代紀行」における明和元年(1764)の条では、「二段の六角の笠・・・」とあり、「六角」 の点で元文の形と大きく異なる。それは、明和の頃を描いたとされる絵巻(以下、明和絵巻)も同様であろう。さらに弘化3年(1846)銘の妙見祭を描いた絵巻(以下、弘化3年絵巻)では他の笠鉾と異なる描写から八角であったと判断されることから、元文年間では八角、明和では六角、弘化では八角と変遷したものと考えられる。
雨具の覚書からは、嘉永7年(1854) に大きな改造があったことが分かる。その主な内容は、上層部の立棒が、「本柱」一本のみであったが 「本柱」 と 「内柱」 の二本で構成されたこと、「伊達板井めし合」 は、「ぶどうニ里す」 であったが、何等かの改修を施されたこと等である。これより8年遡る弘化3年(1846)銘の絵巻に描かれた 「菊慈童」 は、伊達板にぶどう、その隅にはリスが描かれており、覚書の記述と一致した描写となっている。
金箔地に菊花の絵が描かれた金襖八枚の内、一枚の裏には、「聴松裔」 の雅号がある。この号の人物は、甲斐良郷という八代城府絵師である。この絵師は、文化8年(1811)銘の八代城郭全図(松井文庫蔵)を甲斐永翅の別号で浄書している。没年は文政12年(1829)46歳であるから、金襖の製作年代は、それ以前に遡るものと考えられる。
◆構造
笠鉾「菊慈童」 の基本構造は、車台(台)とその中央に直立する芯棒(柱)、その上部に載せる八角形の平面をした「笠」(上笠・立棒・笠台)の部分に分かれる。
車台は昭和37年に造り直されているが、宮之町笠鉾保存会からの聞き取り調査では、台の形は基本的に以前の形を継承しているようである。ゴムのタイヤはこの時に取り付けられている。
心棒(柱)は、中空の外柱とその中に入る内柱で構成される。内柱の頂部に「笠」が載り、台を除く笠鉾全体の荷重を一点で支えている。一本の 「柱」 により全体を支える構造は、笠鉾本来の形を踏襲したものと考えられる。
この内柱は綱を巻き上げることで持ち上げられ、笠鉾全体の高さを調節することができる。高さは、外柱と内柱のそれぞれ三ケ所に込栓を通すほぞ穴があり、九段階に設定できる。
「笠」 の骨組みは上笠・立棒・笠台の三種類の部材で構成され、さらに勾欄などの建築的な装飾・彫刻・水引幕が付けられている。 |