笠鉾

笠鉾の起源は、天和・貞享(1681~1687)頓に遡る。そして、20年の間に華美になり、宮之町を除く八ヶ町については、元文3年(1738)以前には「作り物」「二重の蓋」「四人持ち」の「笠鉾」で、宮之町は宝永年間は一人で持つ傘型の作り物であったが、同年より同様の「笠鉾」 に変えられた。また、宝永3年(1706)以前には「笠鉾」と呼ばれる作り物が「八代町中」から妙見祭に参加している。初期の笠鉾が登場した時期は、上方を中心として全国的に民衆の活力が大きくなる、いわゆる「元禄時代」と重なる。このような町人による祭礼文化の発展は、八代においても民衆の隆盛があったことを物語っている。
明和元年(1764)以降、18世紀後半から19世紀初頭にかけて笠鉾九基いずれもが大幅に改造または新たに製作され、その形に劇的な変化をみせた。この時期も、関東を中心として全国的な民衆の文化・経済が隆盛したといわれる「文化・文政期(化政期)」と重なる。
明和頃の姿は明和元年から安永5年(1776)の間に描かれたと考えられる絵巻(古絵巻)により想像できる。当時の装飾は、謡曲や故事に因んだ題材を採用した頂部の作り物を除けば、平面的かつ抽象的と思われる。
しかし、弘化3年(1846)絵巻における笠鉾の装飾は、その後、明らかな変化があったものと考えられ、「菊慈童」や「本蝶蕪」に見られるような、主題に因んだ題材や、龍・獅子・鳳凰などの吉祥の動物や四季折々の花・樹木などの具体的な題材を用いており、なおかつ、立体的なものになっている。また、笠鉾の上層部は縁・高欄・火灯窓・障壁画を模した建築的意匠によって構成されている。さらに現状の笠鉾と比較すると、弘化以降、装飾に対するそのような傾向がますます強まっていることが分かる。
以上から化政期を中心とした民衆の文化・経済の隆盛は、笠鉾の形に変化を与える一因になったものと思われる。そして、笠鉾の装飾が天下太平・子孫繁栄・吉祥の意味を込めた立体的かつ具体的な装飾になったことで、「八代城の祭礼」 に際し、豪華でめでたく、珍奇な笠鉾の「天下太平」の祝祭的な雰囲気が、領主ら権力者に伝達され、民衆とともに楽しみ、祝う行為がより効果的に演出されたものと考えられる。
江戸時代におけるこのような祭礼を祝い、楽しむ行為と民衆の経済・文化の隆盛が、八代祭礼文化の固有の 「形」として妙見祭笠鉾を生み出したものと考えられる。

菊慈童

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◆墨書に見る年代
 墨書で最も古い年代は1.元文3年(1738)である。この墨書は、年号の次の漢数字がかすれていることから「二」とも読めるが、次の文字が干支の 「午」 であることから元文3年であることが判明した。
古文書「御町会所古記之内書抜 寺社之部」明和7年(1710)の条には、宮之町の笠鉾に関する記述があり、この中で一人持の傘の出し物から「元文三年相改宮之町も九ケ町同前ニ二重蓋四人持ニ成菊慈童の作り物…」 になったとある。前述の墨書の年代1.と一致することからも笠鉾「菊慈童」 の最初の製作年代は、元文3年であると判断される。
当初の形は前述の文書より、「二重蓋(屋根)」「菊慈童の作り物」で、1.の墨書「柱八本」より八角形平面であったと考えられる。しかし、古文書「八代紀行」における明和元年(1764)の条では、「二段の六角の笠・・・」とあり、「六角」 の点で元文の形と大きく異なる。それは、明和の頃を描いたとされる絵巻(以下、明和絵巻)も同様であろう。さらに弘化3年(1846)銘の妙見祭を描いた絵巻(以下、弘化3年絵巻)では他の笠鉾と異なる描写から八角であったと判断されることから、元文年間では八角、明和では六角、弘化では八角と変遷したものと考えられる。
雨具の覚書からは、嘉永7年(1854) に大きな改造があったことが分かる。その主な内容は、上層部の立棒が、「本柱」一本のみであったが 「本柱」 と 「内柱」 の二本で構成されたこと、「伊達板井めし合」 は、「ぶどうニ里す」 であったが、何等かの改修を施されたこと等である。これより8年遡る弘化3年(1846)銘の絵巻に描かれた 「菊慈童」 は、伊達板にぶどう、その隅にはリスが描かれており、覚書の記述と一致した描写となっている。
金箔地に菊花の絵が描かれた金襖八枚の内、一枚の裏には、「聴松裔」 の雅号がある。この号の人物は、甲斐良郷という八代城府絵師である。この絵師は、文化8年(1811)銘の八代城郭全図(松井文庫蔵)を甲斐永翅の別号で浄書している。没年は文政12年(1829)46歳であるから、金襖の製作年代は、それ以前に遡るものと考えられる。

◆構造
笠鉾「菊慈童」 の基本構造は、車台(台)とその中央に直立する芯棒(柱)、その上部に載せる八角形の平面をした「笠」(上笠・立棒・笠台)の部分に分かれる。
車台は昭和37年に造り直されているが、宮之町笠鉾保存会からの聞き取り調査では、台の形は基本的に以前の形を継承しているようである。ゴムのタイヤはこの時に取り付けられている。
心棒(柱)は、中空の外柱とその中に入る内柱で構成される。内柱の頂部に「笠」が載り、台を除く笠鉾全体の荷重を一点で支えている。一本の 「柱」 により全体を支える構造は、笠鉾本来の形を踏襲したものと考えられる。
この内柱は綱を巻き上げることで持ち上げられ、笠鉾全体の高さを調節することができる。高さは、外柱と内柱のそれぞれ三ケ所に込栓を通すほぞ穴があり、九段階に設定できる。
「笠」 の骨組みは上笠・立棒・笠台の三種類の部材で構成され、さらに勾欄などの建築的な装飾・彫刻・水引幕が付けられている。

本蝶蕪

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◆墨書に見る年代
 笠鉾「本蝶蕪」 は明和元年(1764) の文書「八代紀行」に、本・蝶・蕪の作り物、二段の屋根、六角の平面、台、という基本構成が正確に記述されており、「本蝶蕪」は既に明和元年に存在していたことが分かる。
江戸時代には、1.文化6年(1809)、2.文化7年(1810)、3.文政7年(1824)、4.天保8年(1837)、5.天保8年(1837)、6.天保9年(1838)、7.嘉永2年(1849)、8.文久元年(1861)に種々の補修等が、11年~13年程度の間隔で施されたことが窺える。
水引の変化については、水引を収納する箱の中に「本金糸下り房附黒天鳶絨本金糸浪蝶縫水引幕」と墨書された古い包紙が残されている。昭和11年に新調された現在の水引の生地は淡いクリーム色であるが、以前のものは黒のビロード地に「本金糸」 で 「浪」 「蝶」が描かれていたと考えられる。弘化3年(1846)の松井文庫蔵絵巻の描写では、黒地に金色の線で 「浪」 「蝶」が描かれており、古い包紙の墨書の内容とよく合致する。
下屋根押へ板六枚の内、「弐」 の墨書、「四」、「五」 の番号が部材の端で切れており、改造されたものと考えられる。このうち、「弐」 の墨書については、途中までしか読めないものの、役職名と氏名、製作者等が書かれていることが分かる。その墨書の一行目には「寛」、二行目に「元(年)」、三行目に「十(月)」とあることから、頭文字は「寛」の付く年号であると考えられる。「笠鉾」 の文字の初見は「妙見一山」より、宝永3年(1706)であるから、それ以降で頭に「寛」 のつく年号を列記すると、寛保元年(1741)、寛延元年(1748)、寛政元年(1789) の三つである。これらの年号の内、明和頃の様子を描いたと考えられる妙見祭神事行列絵巻との比較から、寛政三年である可能性が高い。いずれにしても、「本蝶蕪」 部材の墨書の中で最も古く、役職、製作者の氏名が連ねてあることからも、製作の覚書と考えられる。

◆構造
笠鉾「本蝶蕪」 の基本構造は、笠鉾黒塗臺(台)とその中央に直立する柱、その上部の笠鉾胴柄に分かれる。
笠鉾胴柄は、中央の柱(柄)とそこから放射状に延びる細い鉄製の斜め材及び上屋根と上層部の骨組を形作る細い木製の部材で構成され、その平面は六角形である。
この部分が台中央の柱の上端に取り付けられる。これに屋根・梅之間・青貝伊達板などの装飾とさらに水引幕が取り付けられ、その荷重を一本の柱で支えている。
さらに笠鉾胴柄には、その中心に鉄製心棒という金属の細長い棒が入り、中の滑車と紐の巻き上げにより、本の字と蝶の作り物を上下させる仕掛けがある。
台中央の柱は、中空の柱と芯となる柱の二本で構成され、中に通されたワイヤを巻き上げることで芯となる柱が持ち上がり、笠鉾の高さを調整する。笠鉾の高さは、台に設けられた歯車式の巻上機器で無段階に設定することができる。

蘇鉄

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◆墨書に見る年代
 江戸期においては4~20年程の間隔で種々の補修等をしたことが窺われる。中でも上欄間については寛政5年(1793)から寛政9年(1797)まで「藤作」・「藤本左平」らにより、毎年、少しずつ漆の塗直し等の補修、修繕が行われたものと考えられる。
笠鉾「蘇 鉄」 の墨書では、この寛政の年代が最古のものである。
しかし、古文書「八代紀行」、明和元年の条に、笠鉾「蘇 鉄」の記述があり、古絵巻にも描かれていることから、年代は更に遡ると考えられる。

◆構造
笠鉾「蘇鉄」の基本構造は、笠鉾大台(台)とその中央に直立する真棒(柱)、その上部の屋根型(笠)の三つにより構成されている。
笠鉾大台は、ゴムタイヤとは別に小さな木製の車輪が四個付いている。
松井文庫蔵の弘化3年の妙見宮御祭礼神事行列絵巻の描写にも、木製と思われる小輪が描かれており興味深い。屋根型は現在、一つの部材として扱われているが、屋根の下地になる部分(笠)、六角形の枠、六本の柱の三種の部材に分解可能である。これに、屋根、上欄間などの装飾、水引幕が取り付けられ、その荷重は心棒一本で支えている。
真棒は、笠鉾「菊慈童」と同じく中空の柱と芯となる柱からなり、綱の巻き上げにより笠鉾全体を上下させて高さを調節し、込栓を柱のほぞ穴に入れ固定して高さが決定される。

西王母

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◆墨書に見る年代
 廷享元年甲子(1744)の各一字が部材を取り付ける際の位置を示す記号になっている。「西王母」 の墨書の中では最も古い年号であり、製作年代と考えられる。
1.上屋根遅々緋の箱、2.下屋根遅々緋の箱、3.上屋根雨覆の墨書のいずれにも安政四年(一八五七)の銘があることから、この時期にかなりの補修、造り直しなどが行われたことが分かる。その内容は、3.上屋根雨覆裏に詳細に記録されており、「長柄(芯棒)」、「桃(桃の木)」、「上屋根雨覆」 六枚はこのとき新たに作られ、上下の屋根の赤布「漫々緋」も貼り直され、鯉の間六枚は色の塗直しが行われたことが記してある。

◆構造
笠鉾「西王母」の基本構造は、車台(台)とその中央に直立する一本の柱(芯柱)と、その上端に取り付けられる上笠の骨組の三つよりなっている。
車台には、現在、直径580ミリメートルの旧日本軍の航空機用と思われるタイヤが取り付けられているが、これよりも大きな径の丸く擦れた跡が付いている。これは、以前ついていた大きな車輪の痕跡と思われる。
上笠の骨組は、芯棒先端部に取り付けられる六本の隅木と六角形の枠、その二つを繋ぐ六本の柱からなる。これに屋根、装飾及び水引が取り付けられ、その荷重は芯柱一本で受け持っている。
この芯柱も、上下に高さを調節することができる。

猩々

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◆墨書に見る年代
 箱・部材の墨書の年代では、上屋根軒先を受ける部材(腕木)の墨書が最も古く安永5年(1776)まで遡ることができる。
関連史料からは、「八代紀行」の明和元年の条に笠鉾「猩々」 の外観について述べており、最初の製作年代は安永から更に明和元年(1764)以前まで遡ると思われる。
箱の蓋の墨書は弘化3年に六人猩々の箱を作った旨の覚書である。「六人猩々」とは、現在、下屋根の棟先端に一体ずつ乗る、計六体の小さな猩々の人形であると推定され、当時からこのような装飾をつけていたと思われる。
一方、同年代の弘化3年(1846)銘の絵巻は江戸期における笠鉾の姿をよく伝えているが、そこに描かれている笠鉾「猩々」を見る限り、「六人猩々」を思わせる装飾は見当たらない。
以上から箱の蓋の墨書の内容と現在の笠鉾「猩々」は「六人猩々」 の点で一致することから、弘化以降からこのように装飾されたものと考えられる。

◆構造
笠鉾「猩々」の基本構造は、車台(台)とその中央に直立する芯棒(柱)、その上端に載せる骨組の部分に分かれる。
芯棒(柱)は、中空の外柱とその中に入る内柱で構成され、その頂部に骨組が載り、台を除く笠鉾全体の重量を支えている。一本の「柱」により全体を支える構造は、笠鉾本来の形を踏襲したものと考えられる。
この内柱は網を巻き上げることで持ち上げられ、笠鉾全体の高さを調節することができる。高さの設定は、内柱に込み栓を通すほぞ穴が三ケ所、外柱には一ケ所あり、この組合せにより三段階に設定できる。
骨組は六角形平面で、内外に二重に柱があり、鳥籠のような形である。その底部には、六角形の対角線上に構造材を入れている。

蜜柑

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◆墨書に見る年代
 笠鉾「蜜柑」の墨書で最も古い年代は、蛇腹の賓暦3年(1753)で、「手斧立」と書いてあることからも、製作年代と考えて間違いない。
この墨書には、職人の名前も多数みえ、この中には、八代城附絵師「木公(松)島仙流」 の名前がある。彼は「絵師」として笠鉾製作に携わっている。その一方で、同年には妙見宮修復に「塗師」として参加しており、当時の支配層に仕えた職人像の一端をうかがうことができる。

◆構造
笠鉾「蜜柑」の基本構造は、車台(台)とその中央に直立する芯棒(柱)、その頂部に載せる骨組の部分に分かれる。
芯棒は、笠鉾「猩々」と同じく、中空の外柱と内柱で構成される。この内柱は、ワイヤを歯車式の巻上機で巻くことで高さを調整する。高さの設定は、内柱に込み栓を通すほぞ穴が三ケ所、外柱には一ケ所あり、この組み合せにより三段階に設定できる。
骨組は芯棒の一部と一体になっている。六角形平面で、角には内柱・中柱・外柱の三重に柱がある。更に柄の部分から上屋根を受ける隅木に向かって細い斜材が伸びており、中間で前述の三重の柱が接続している。
近年、鎖とターンバックル、下部の補強材を取り付けており、笠鉾組立後、このターンバックルを回すことで骨組が引っ張られ部材どうしが更に緊結される仕組みである。柄の部分には「昭和四十一年吉田式吊上機施工」 とあった。

恵比寿

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◆墨書に見る年代
 笠鉾「恵比須」頂部の「波」の作り物は桐の切り株を用いて作られたもので、くり抜かれた内部には、墨書があり、明和元年(1764)に大工 三平次により製作されたことが分かる。
一方、文書の「八代紀行」にも明和元年(1764)の条に、「六番徳淵町 恵比須鯛ニ乗、下ハ六角ノ笠二段…但去年ハ桐ニ鳳凰ノよし 当年より改り申候・・・」とある。この年、「桐ニ鳳凰」から「恵比須」 の作り物に変わったことが分かり、「波」 の製作年代と符号する内容となっている。
しかし、笠鉾本体については、上層屋根の墨書より、文政3年(1820)に何らかの手を加えている等、最初の製作時から現代に至るまで大きく形が変化しているものと考えられる。

それは、古絵巻と弘化絵巻の比較、弘化絵図と現状の比較からも、判断できる。

◆構造
笠鉾「恵比須」の基本構造は、車台とその中央に直立する芯柱(柱)、その頂部に接続する「屋根受骨組・心柱」という骨組、上屋根を受ける材「上屋根受隅棟」、頂部の作り物を取り付けるための「頂部心柱」 の五つで構成されている。
心柱は前述の六基と同様、中空の外柱と内柱で構成される。この内柱は、ワイヤが歯車式の巻上機で巻くことで高さを調整する。高さの設定は、外柱に込み栓を通す穴が一ケ所だけあり、二段階まで可能である。
骨組には上屋根を受ける部分がなく、上層より下の骨組の中央に心柱(ほぞ)が直立したような構造になっている。車台側の心柱先端にほぞ穴があり、そこに心柱を接続し、込み栓で固定する。
「上屋根受隅棟」 は、組立の過程で、骨組の心柱頂部に取り付けられる。更に頂部の作り物を取り付けるための 「頂都心柱」 を接続し込み栓で固定する。

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◆墨書に見る年代
 文書「八代紀行」、明和元年(1764)の条には、平河原町の笠鉾について次のような記述がある。
「七番 平瓦町 孔雀・・・
黒天鵡絨下り」
この記述から、平河原町の笠鉾は当時、「孔雀」であったことが分かる。屋根形状も「八角の羽下りたる笠…」とあり、弘化三年銘の絵巻や現状では、六角である。よって、弘化三年銘の絵巻や現状の笠鉾「松」とは、頂部の作り物、屋根形状等が異なっていたと考えられる。
箱・部材の墨書で最も古い年代は、上層部の部材「六歌仙」にある文化2年(1850)の墨書である。
年代は不明であるが、木箱に転用された板図が全部で八枚発見された。この内、五枚を合わせると、上層部平面と上屋根の反り・起り、わらび手を合わせた一枚の板図になった。その他、上層部断面の板図の一部、頂部の「鉢」の板図があった。後の一枚は、二本の交差する線分が書いてあるのみである。上層部の平面及び断面の板図と現状の笠鉾「松」 の形は、ほぼ一致していることから、その製作時に描かれたものと考えられる。
「鉢」の板図と現状の「鉢」を比較すると、中央の絵様が大きく異なる。現状の絵様は、「木彫の花」で、文政7年(1824)の墨書が見つかっている。よって、「鉢」 の板図は、その年代より前のものであることが分かる。平面の板図については、更に、「六歌仙」は、文化2年(1805)、製作であることから、同年のものと考えられ、現在の笠鉾の製作年代は、文化2年(1805)まで遡ることができる。

◆構造
笠鉾「松」の基本構造は、車台と中央に直立する心柱、その頂部に接続する骨組、頂部の作り物を取り付けるための「上り真木」「白木垂木」の五つで構成される。
芯柱は内柱と外柱の二重構造で、綱を巻き上げることで伸縮し、高さは、芯柱に込み栓を通すことで三段階に設定できる。
骨組は、笠鉾「恵比須」とほぼ同じだが、上屋根を受ける材「白木垂木」は、骨組の柄の部分には取り付けず、骨組中央の柄に差し込む「上り真木」 の中程の犠柄に接合する。

迦陵頻伽

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◆墨書に見る年代
 墨書では八笠鉾道具入が最も古く天明6年(1786)である。文書、「八代紀行」では更に遡り、更砂天井には文化13年(1816)の年代が記されているが、筆致は墨書の毛筆と異なり、年代に比べ新しい印象を受けることから、墨書を書き写したものと思われる。
明和元年(1764) の条に
「八番 塩屋町 迦陵頻、下ハ六角ノ笠四段形、純子下り」とある。同じ明和の頃を描いたと考えられる古絵巻の「迦陵頻伽」 の笠(屋根)は三段であるが、最下段の屋根をみると、それとは別に庇のようなものが描かれている。
一方、弘化3年(1864)銘の絵巻では、六角の屋根三段に描かれ、現状では、八角の屋根三段である。
以上から、明和、弘化、現代に至る間に、屋根形状は、六角四段、六角三段、八角三段へと変遷したのではないかと考えられる。

◆構造
笠鉾「迦陵頻伽」の基本構造は、車台(台)とその中央に直立する一本の柱(芯柱)と、その上端に取り付けられる骨(骨組)の三つで構成されている。
芯柱は内柱・外柱の二重構造で、綱を巻き上げることで伸縮し、芯柱に込み栓を通すことで高さを三段階に設定できる。
上、中、下、三段の屋根をもつことから、上下二段の屋根のついた他の笠鉾とは、外観上かなり異なる。しかし、骨組は、大半の笠鉾と同様に鳥籠のような形態である。