神輿

databace-mikosi01s
正面
databace-mikosi02s
側面

◆構造
神輿本体は、担い棒から上の部分である。その下には、近年、祭礼時の移動のために台車を設けている。
屋根は六角宝形で、隅木を出し、その先端は銅板を加工して蕨手としている。棟は、低く盛り上がり、屋根中心から放射状に伸びる筋として認識されている。屋根の表面は、木の薄板を曲げて張り、反(そ)りと起(むく)りを付けられている。軒裏は、化粧垂木で、平行、かつ、密に配置されている。
頂部は、六角形の枠と、その中に鳳凰を固定する為の金具が付けられている。
平面も六角形で、床の上に六本の柱が立てられ、壁は板壁である。柱間には、柱頭部に桁が架かり、前後の扉を挟んで上下に二本ずつ、長押のような横材が入っている。前後の扉は、両開き、外側に定規緑をもつ板唐戸で金属製の藁座で軸吊りとする。階段も前後に付き、断面が四角い長い木を横に並べて段を作り、両側に木口を見せている。
床は、四方の背の高い横材の緑に板じゃくりを付けて板を取り付け、床下には、神輿本体の真下に、前後方向と直角に三本の横材が入っている。
神輿の四方には、擬宝珠高欄が廻り、前後に鳥居が付けられている。
擬宝珠高欄は、床の左右に六本の親柱を立て、柱間には、柱下部から上部の順に地覆、平桁と架木の間に斗束、という垂直材が入っている。
鳥居は、二本の柱が内転びに立ち、柱の上端には台輪という円盤状の部材がある。水平材は三本で、貫、反りの入った笠木、その下の島木がある。柱間の中央、貫と島木の間には、額束という垂直材が付けられている。

◆装飾
頂部は、金銅製の鳳凰が飾られている。その下の六角形の枠には、九曜紋、二引両紋の二つの神紋を交互に配した金銅の板で装飾されている。
屋根表面は、黒漆塗りで、三つの円形のやや丸く盛り上げた銅板が三角に配されている。
蕨手は、銅板に線刻で唐草文様が描かれている。その上には金銅製の鳥を飾り、下には、鈴を組み紐で吊り下げている。
軒下には板瓔珞が吊り下げられている。その上部の板状の部分には、銅板を張り、中央に九曜紋、その両側に二引両紋が配されている。
外壁には、朱色に塗った「四歩一」という細長い角木で縁取られた彩色画があるが、傷みが激しく、その全容を見ることはできない。しかし、部分的には、松・笹・桜・烏・蔓草や花などが確認できる。
屋根の軒端、垂木の木口、軸部や前後の扉の外部に面した部分、鳥居、擬宝珠高欄などには、金銅製の飾り金具が多数、装飾されており、神輿のほぼ全体に塗られた黒漆との対比が鮮やかである。
内部は、床に、六角を二等分して二畳の畳が敷かれている。柱は、三面を取り、壁の上端で切れて長押状の部材と接している。
前後の扉を除く四面の壁には、金箔地に春夏秋冬における松の樹が描かれている。
天井は、斜めに折り上げた部分に、金箔地に緑の茎と赤・青の葉、赤い花弁をもつ花と、天井板には、金箔地に細川三斎公直筆といわれる雲龍が描かれている。

◆まとめ
永禄8年(1565)、相良氏が八代を領していた頃、「はうおう(鳳凰)」 をつけた妙見祭神輿があった。その後、製作された神輿にも頂部に鳳凰が飾られており、この点は室町時代から踏襲されたものといえよう。
八代を細川氏が領してからは、寛永12年(1635)3月、細川三斎により妙見宮の復興が行われ、新たに神輿が造られた。その天井には三斎公直筆の雲龍が描かれたとされる。明和、享保の記録にも天井画は「忠興公御筆」、或いは「御筆」 とされていることから、現状の天井画は、寛永製作の三斎公直筆のものを継承したと考えられる。
以上から、妙見祭の神輿は、寛永十二年頃の製作と考えられ、それ以降、二つの絵巻の間の差異に見られるように細部の形は変化し、享保の古記録のような修覆等による手が加えられながらも、弘化3年の絵巻に描かれた神輿に最も近い形で現代に受け継がれているものと考えられる。